※参考文献




昭和30年代払って悲惨な殺人事件がありました。有名な事件は昭和38年におきました。昭和38年といえば、東京オリンピックの前年で、オリンピックに向け都市開発が進んでおりました。農村だった埼玉県X市でも開発の波がせてきて、土地を売る人もちらほら出てきたころでした。また、昭和30年代は都市開発が進む一方で、前近代的な風習も残っていた時代でした。例えば、昔の農村では夜這よばいいの風習が昭和30年代まで残っていたそうです。都心に近い狭山市でさえ、昭和30年代は封建的な感じだったそうです。近代と前近代のせめぎ合いの中で起こった事件が、狭山事件です。








昭和38年(1963)5月1日、女子高校生・A子さん(16才)が、何者かに誘拐ゆうかいされ、5月4日に彼女の死体が発見されるという事件です。A子さんはX市内の裕福ゆうふくな農家の四女でした。A子さんが行方不明になった日の夜(5月1日)、A子さんの自宅に「20万支払しはらわなければ殺す」という脅迫状きょうはくじょうと彼女の自転車が届きました。A子さんの長兄はすぐに警察に通報しました。警察は身代金支払い時に犯人を現行犯逮捕たいほするつもりでいました。


二日の夜12時、A子さんの姉が指定されていた近くの店、佐野屋の前までお金を持っていきました。今のX市はベッドタウンになりましたが、当時の狭山市は雑木林ぞうきばやしや畑などが多く、街灯もほとんどなかったので、あたりは真っ暗だったそうです。

犯人が現れ、姉と犯人がひと言、ふた言やりとりしましたが、警察の張り込みに気づいてげてしまったのです。そして4日に、A子さんの遺体いたいが近くの農道で発見されるのです。

警察は、ひと月前の吉展よしのぶちゃん事件の失態しったいをくり返したくないので、あせりました。それで事件の容疑者としてI被告ひこくが5月23日に逮捕されます。I青年は事件の容疑者とされてしまいました。I青年は被差別部落ひさべつぶらくの出身だということで疑われたのでしょう。昭和30年代の狭山市は部落差別が残っていて、部落の人たちは「あそこの人たちは」と言われていたようです。

部落解放同盟は、I氏の無実のうったえをきっかけに、公正裁判と完全無罪判決要求活動をはじめ、現在に至っております。

ちなみにI氏は若い頃、東京都保谷市(現西東京市)の東鳩の工場で勤めていたのですね。東鳩といえばキャラメルコーンが特に有名な製菓会社ですよね。旧保谷市に住んでいた知り合いから、僕はその話を伺ったことがあります。その東鳩の工場は今はもうないそうです。

また、何人かの作家や文化人も多数の著書のなかでえん罪の可能性を指摘しております。たしかに、検察側の提出した証拠しょうこは、脅迫状の筆跡ひっせき封筒ふうとう、スコップ、万年筆などたくさんあります。けれど、いずれも決定的とはいえないものばかりです。脅迫状をはじめ、すべての証拠物件しょうこぶっけんからI氏の指紋しもんが発見されておりません。


とくに被害者A子さんのものだとされている万年筆。この万年筆がI氏の家の勝手口の鴨居かもいから発見されたのが事件後二か月もたってからでした。それまで12人の刑事けいじがI氏の家を二時間以上もかけた徹底的てっていてき家宅捜査かたくそうさを二回も行ったにもかかわらず、万年筆など見つからなかったのです。そして3回目の家宅捜査の時に万年筆がとつぜん出てきたのだからナゾが多いです。

I氏の自白によると「犯行当時、被害者A子さんは突然呼び止められ、自分の自転車を押しながら見ず知らずのI元被告についっていった」とあります。が、被害者のA子さんはスポーツ好きの活発な少女で、見ず知らずの男に「ついてこい」と言われただけで、だまってついていくこと自体が不自然だし、そんなアヤしい人間とA子さんが一緒いっしょにいる光景をだれも見ていないというのも不自然です。

それにA子さんが誘拐された5月1日ですが、その日の放課後に、A子さんは時間をひどく気にしているようで、しかもガード下でA子さんは誰かを待っているような様子だったといいます。ましてや5月1日といえば、A子さんの誕生日でした。A子さんは知り合いと待ち合わせをして、誕生日を祝うつもりだったのではないかと推測されます。

それらのことから、A子さんと誘拐犯はお互いに顔見知りだった可能性もでてきますが、いすれにせよ、50年以上たった今でも犯人は誰なのかナゾのままです。

ちなみに、この狭山事件と宮崎駿さんの「となりのトトロ」と関連があるという都市伝説があり、A子さんのお姉さんが「化けネコをみた」と言ったとネットで書かれていますが、そんなことをA子さんのお姉さんは一言も言っていません。また、サツキ12歳とメイ4歳の年齢を足すと殺されたA子さんの年齢である16歳になるという話もありますが、そんなものはこじつけとしか思えません。トトロは二人姉妹ですが、A子さんの一家は、兄弟が三人、女姉妹が五人でA子さんは四女なんですよね。トトロがこの事件のモチーフというのならば、二人よりも8人ほうがより自然だとおもうのですが。


それで、僕は宮崎さんはどんな思いで「トトロ」を作ったのか、本当にこの事件とかかわっているのか知りたくて、こちらの本を図書館で借りてきました。

出発点―1979~1996
宮崎 駿
スタジオジブリ
1996-08



この本にかいてあることで、僕がいくつか気になった点をいくつか箇条書きしてみます。



  • トトロの舞台が昭和30年代というのはウソテレビがまだない時代だった。


  • トトロの舞台は、いろいろなところから取っている。聖蹟桜ヶ丘だとか、自分が子供のころ見て育った神田川の流域だとか、今住んでいる所沢の風景だとか、みんな混じっている。さらに美術の人に秋田出身の人もいて秋田の風景も混じっている。要するに具体的な場所は決めていない


  • サツキとメイが引っ越してきた家というのは、結核患者を療養させるために作った別荘だったが、その患者が亡くなったので空いてしまったという裏設計がある。


  • 宮崎さんはあの時代が懐かしいからではなく、子供たちが「トトロ」を通して、ふと草むらをかけたり、ドングリを拾ってくれないかと願っている。


  • 主人公を女の子二人にしたのは、宮崎さん自身が男だから。ちなみに宮崎さんは自分の子ども時代のことをあまりオーバーラップするような作品を基本的にはつくりたくない。


  • エンディングに出てくる止めの絵にはトトロとさつき、メイが遊んでいる絵がない。それは宮崎さんが意図的にトトロとさつきが一緒にいる絵を外した。そこにとどまっているとあの子たちは人間界に戻れなくなるからと。あれからは全然トトロに会わなくてよいと宮崎さんは考えていた。




まとめてみますと、何もトトロの作品は昭和30年代の埼玉県を描いたわけじゃないということと、子どもたちが自然と触れ合うことの大切さを説いたのだということがわかります。それから僕も本を全部読んだわけじゃないのですが、この事件と「トトロ」がリンクするような記述は見られませんでした。

そもそも宮崎さんが子供たちに見てもらいたい作品になぜわざわざ人が殺されるような事件を裏設計にするのでしょうか?その点の疑問が僕には残ります。

子どもたちにこの事件を知ってもらいたいから?。う〜ん、この事件は知らないほうが幸せのような気がしますけれど。それに狭山フリークと言われてる人たちは皆トトロとこの事件の関係を全否定しています。その辺は狭山フリークの人たちのHPにも書かれているのでご参照のほど。


そんなに宮崎さんがこの事件をモチーフにしてアニメ映画を作ったと主張されるのですか?

だったら「千と千尋の神隠し」はあの事件をモチーフにしていると言った方がいくらか説得力がありますよ。少なくとも「トトロ」よりは?あちらの方がおどろおどろしいですし。それに昔は神隠しがよく起こったと言いますが、あれは殺人事件だったそうですよ。犯人が真相をうやむやにするために、天狗さまの仕業だとか神様が隠したのだかとふれて回ったのが原因だとか。(もちろん、神隠しの真相は殺人だけでなく誘拐、家出とか色々ありますが)


たしかに「トトロ」とこの事件を結びつける説はいろいろあります。しかし、どれもこじつけ話が多く、根拠としては弱いように思えます。たとえば、このアニメの作中に「狭山茶さやまちゃ」のはこがでてくる、だからこのトトロはこの事件と関連があるという意見もありますが、これはもう笑うしかありませんwww

僕は埼玉県に住んでいないけれど狭山茶を飲むこともあります。そもそも狭山市の名前の由来は「狭山茶」からとられたものです。なにしろ狭山茶は日本三大茶の一つで、そのはじまりは鎌倉時代だと言われております。この事件と狭山茶を結びつけるのは強引な気がします。


それはともかく、事件のお話はこれにて終了します。今回の記事は犯人はだれなのかを推理すいりする内容ではありません。この事件だけでなく昭和30年代はヒサンな事件も結構おおくて、「3丁目の夕日」に出てくるような牧歌的な時代であったとはいえないということをお伝えしたかったまででして。この事件に関しては優れた検証サイトや本もたくさん出ていて、とてもじゃないが僕の出る幕はないようですw


(都市伝説のウソを実証する動画)