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今日は、富岡製糸場とみおかせいしじょうの工女さんの労働条件について。その話をする前に、の写真ぎょっとしますよね。実は富岡製糸場の塀には鉄条網が張られています。おそらく、これは工女さんに逃げられないようにするためかと思われます。富岡製糸場の労働条件が工女さんが逃げ出すほど悪かったのでしょうか?では、官営時代と民営時代の富岡製糸場について2回にわたってお話します。きょうは公営時代を。






















1 工女の労働時間

 まずは、富岡製糸場の工女さんの待遇たいぐうから。



 


勤務 

朝の7時〜夕方の4時半まで 実働時間 7時間45分(ただし、季節によっては勤務時間がちがう)

勤務期間 1年以上3年まで(終身雇用ではない。私事都合では退職できず)

 

休日 年間76日 

     内訳   50日(毎週日曜日) 

     祭日   6日 

     年末年始 12月29日〜1月7日まで 

     暑休   10日




どこぞのブラック会社とはエライちがいの労働条件w?本来、人間の集中力が続くのは、1日4時間ないし6時間が限界で、仕事も4〜6時間が望ましいそうですね。1日4~6時間とはいかないが、7時間45分で仕事が終わりました。勤務時間は7時間45分でした。毎週日曜日は休めた上に、夏休みと冬休みがそれぞれ10日ありました。しかも、朝の9時から30分休憩、正午に一時間昼休み、15時に15分休憩と休憩時間が結構あったのですね。
仕事が終わるのは夕方16時半。毎週日曜日が休みでしたが、実は明治政府が日曜日を休日と定めたのが明治8年(1875年)だったので、明治5年の時点で富岡は日曜を休みとしていたのですから、時代を先駆けしていたのですね。

8月は昼休みがなんと4時間ですよ!これは職場の中が蒸し暑くなり、工女さんたちが体調を崩したら大変だからという理由だそうです。日頃から、作業所内は蒸気で蒸し暑いのに、夏場なんて地獄のような蒸し暑さでしょう。ましてや、冷房がない時代です。そんな蒸し風呂みたいな環境で働かせるのは酷だということでしょう。でこの労働条件は、ブリューナが日本政府との契約で取り決めた『職工働き方』にもとづいているそうです。このような労働条件は、当時の日本では画期的だったそうです。

仕事は日の出から日の入り前30分までと決められていたようです。何しろ、明治の初期といえば電気が普及ふきゅうしていない時代です。お日様の光をたよりに工女さんたちは作業をしていたのです。季節によって勤務時間が異なるというのは、夏のように昼が長いと勤務時間が長くなり、逆に冬の様に昼が短いと、それだけ勤務時間が短くなったようです。

とはいっても、富岡はブリューナたちがいなくなってから勤務時間が長くなりました。年を重ねることに長くなり、富岡が民営化される直前は11時時間となったそうです。民営化されるとさらに長くなるのですが、その辺のお話はまた次回。



2 工女さんのお給料と福利厚生

次は工女さんたちのお給料についてお話します。それは以下のとおり。



等外上等工女 3円
一等工女 1円75銭

二等工女 1円50銭

三等工女 1円




七等工女 75銭

 給料は月給制。それとは別に作業服代として、夏服料2円、冬服料3円の計5円支給される。

 





富岡製糸場の工女さんは、勤続年数きんぞくねんすう年齢ねんれいが増すにしたがって地位や賃金が上がるいわゆる年功序列ねんこうじょれつではありませんでした。仕事の成果で給料がかわる能率給のうりつきゅうでした。

最も腕の立つ等外上等工女は月に三円もらえました。「月に三円しかもらえないなんて酷えな、子供の小遣いより少ないじゃん」と思うのは現代人の感覚。今のお金で6万円だったそうです。一生懸命働いて月6万円ですか。現代の感覚でも少ないですね、アパートの家賃でほとんど消えちゃいますね。一番下っ端の七等工女は75銭。今の価値に直すと1万5千円。安すぎ・・・

ちなみに、当時の大工の月給が9円62銭。今の価値に直すと19万2千円です。やはり、当時の感覚から見ても、工女さんの方が給料が低いです。しかし、工女さんは夏に服料として2円、冬にも3円と今でいうボーナスが支給されます。寄宿舎に住み込みだから家賃もいらないし、食事も三食、支給されました。また、寄宿舎の賄料まかないりょうとして1日7銭1厘支給されたそうです。賄料の意味は、おそらく食事代とかもろものの必要経費かと思われますが、やはりわかりません。ごめんなさい。

しかも医療費もタダ。すごいですね。富岡製糸場には診療所があり、具合が悪くなった工女さんは、診療所に運ばれるのです。初期のころ(官営時代)はフランス人のお医者さんが診療をしていたようです。それと、薬代も治療代も工場側が負担をしたというからオドロキです。

富岡製糸場は単に仕事をする場所ではなく、専門学校のような側面もありました。製糸作業の技術を習得させるという目的もそうですが、習字や裁縫、礼儀作法まで仕込まれたと言います。そういった情操教育も行われていたのです。もちろん学費は無料。だから、富岡製糸場で働けば、花嫁修行になるといって、行かせる親御さんも少なくなかったそうです。

そう考えると、七等工女さんはともかく、全体的に見ると特別悪い待遇ではないのかなって。

食事の話をしましたが、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』には、そまつな食べ物ばかりだったと書かれています。富岡の工女だった和田英の日記には、このような事が書かれていました。

「私ども入場いたしましたころは、みな自分の部屋で食事をいたしました。・・・十一月ごろから大食堂が出来まして、ご飯の茶わんとハシだけ持っていくのであります。・・・・生な魚は見たくてもありません。塩物と干物ひものばかり、牛肉などもありますが、赤いんけんのにたのだとか切りコンブとあげ蒟蒻こんにゃく八ツ頭やつがしらなどです。・・・朝食はしる漬物つけもの、昼は煮物にもの、夕は干物ひもの・・・・。」

刺身は冷蔵庫がない時代だから難しいとして、普段は粗末な食事だったそうです。しかし、たまに牛肉が出たみたいです。しかし、食事代は全て工場持ちと言う事を考えたら恵まれております。

3 意外と辞める工女さんが多かった。
 工女さんたちの勤務期間は1〜3年。今でいう期間工みたいなものです。1年たたないと自己都合でやめることができません。にもかかわらず一年未満でやめることが多いのです。

早期退職の理由は、仕事になじめない、楽しみがない、給料の低さ、あるいは人間関係、ホームシックなど。工女さんたちが寄宿舎で、赤の他人と寝食を共にをしておりました。その寄宿舎は、木造2階建てで2棟あり、部屋が全部で116部屋ありました。一部屋は6畳ほどで、そこに3〜5人が押し込められていました。家賃がいらないとはいえ、相部屋でした。プライベートもあったもんじゃないでしょう。就業規則も「日曜日以外の外出は許さない。門限は6時」とか「 部屋でも行動は静粛にしろ」とかいろいろ細かく定められていました。

また、今みたいにテレビもネットもない時代でしたからね。工女さんたちが口々にいったのが「こんなことをしていて何になる。お嫁に行っても活かす場はない」でした。

そして何よりも、明治初期の日本人は時間に縛られ一斉に集団労働をする習慣がそもそもなかったのですね。今じゃ当たり前でも明治のころはそうでもなかったのです。そのような生活習慣は欧米からはいってきたものです。そうして、こっそり逃げ出す工女さんもいたのでしょう。

今回は公営時代の富岡製糸場を取り上げましたが、次回は民営化されてからのの富岡製糸場を取り上げます。次回の記事→http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2178455.html



こちらもよろしければご覧ください。




Inside Tomioka Silk Mill.JPG
宮内省(現・宮内庁) - 吉川弘文館「明治の日本」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる




※ この記事は富岡製糸場のパンフレットおよび、BS・TBS『にっぽん!歴史鑑定』、日本文教出版さんのサイトそれから『富岡製糸場と絹産業遺産群』を参考に書かせていただきました。



https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/history/history079/





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(*この記事は2022年2月2日に加筆修正しました)